ORIHIME’s diary

利用していたブログサービスが閉鎖となり、旧記事とともに引っ越してきました。テーマは「好奇心、感動、そして感謝」です。

難病を克服した天才シンガー


ラッセル・ワトソン Russell Watson

 

The New York Times: "Sings like Pavarotti and entertains the audience like Sinatra"    ニューヨーク・タイムズ: 「歌えばパヴァロッティ、観客を楽しませる彼はシナトラのようだ」。

クラシック、ポップス、ジャズなど・・・ジャンルレスで歌声に様々な表情をもつ稀有なシンガー。

 

難病を克服して音楽シーンに帰ってきた
ラッセル・ワトソン

彼は母国イギリスで "People's Tenor" 「国民のテノール」と呼ばれています。ちなみに故ダイアナ妃は "People's Princess" 「国民のプリンセス」と呼ばれていました。

まずは、ラッセル・ワトソンのキャラが反映されている若き日のライブをご覧ください。2001年イギリス・リーズの野外コンサートから「ヴォラーレ

 

[遅咲きの苦労人]

ラッセル・ワトソンはマンチェスター市郊外の労働者階級の家庭に生まれました。「クラスの道化者」だったラッセルは16歳で学校を終えて工場で働き始めました

やがて結婚して家族ができたラッセルは生活費を補うために、夜、地元のパブやクラブで歌い始めます。ミートローフ、マイケル・ボルトン、ニール・ダイヤモンドらの歌が中心でした。90年代初頭、イギリスではBBCが1990年W杯イタリア大会のテーマ曲に使ったパバロッティの「ネッスンドルマ」が大流行していました。ラッセルはこのオペラアリアを歌うよう求められ、見様見真似で歌ったところ拍手喝采を浴びたのです。以来レパートリーにクラシックが加わりました。

クラシック、ポップス、ロックを自在に歌いこなすラッセルは様々なイベントに呼ばれるようになりましたが、あくまでも副業でした。ロンドンのウェンブリースタジアムで行われたラグビーのリーグ決勝戦では国歌を歌い観衆を魅了しました。次いで赤十字のチャリティイベントで彼の歌を聴いたマンチェスター・ユナイテッドFC の会長マーティン・エドワーズから声がかかったのです。クラブのホームスタジアムで開催されるプレミアリーグの最終試合で歌わないかと。前年、当クラブの記念試合で歌う予定が土壇場でキャンセルになった経緯がありましたが、会長からのオファーとなれば出演は確実でした。マンチェスター・ユナイテッドの大ファンでシーズンの通し席を持っていたラッセルには夢のようなオファーでした。

1999年5月、タキシードに身を包みピッチに立った若者は、5万7千人のサポーターの前で「ネッスンドルマ」を歌いました。割れんばかりのスタンディング・オベーションが鳴り止まなかったといいます。その模様は全国にテレビ放送され、無名の若者は一躍その名をイギリス中に知らしめたのでした。ラッセル・ワトソンがプロの歌手として飛躍する第一歩でした。

その場にいた著名なスポーツジャーナリスト、ポール・ヒンス氏はこう語っています。「有名なアリアをあんなふうに歌う歌手を初めてみた。滅多に褒めることをしない皮肉屋ばかりのプレス席の連中がみなスタンディング・オベーションに加わったんだ。彼の歌は "something special" (無二の特別なもの)だった」

プッチーニ作 歌劇"トゥーランドット"から「ネッスンドルマ


[遅咲きのデビュー]

翌年の2000年、ラッセルは大手レコード会社からクラシックアルバム「ザ・ヴォイス」でCDデビューを果たします。33歳でした。「ザ・ヴォイス」はクラシックチャートで52週間一位を独占する大記録を作りました。米国でもクラシックの一位になり、米英両国で首位を飾ったイギリス初の男性アーチストになったのです。

私はロンドンからのお土産でこのCDを入手しました。知らないアーチストでしたが、それまで聴いたことがない通る声で歌心がひしひしと伝わってくるクラシックの歌唱に衝撃を受けたことを憶えています。待ちに待った初来日コンサートにはすっ飛んで行きました。フルオーケストラをバックにクラシック、ポップス、ジャズを楽しく聴かせるコンサートは期待以上で、オーチャドホールでの2時間はあっという間でした。初来日時、ラッセルの大ファンというキャスターの筑紫哲也さんがご自分の番組の大半を使って、天才シンガー、ラッセルを紹介していました。

アルバム「ゴールデンヴォイス」のボーナストラック、Queenの「ボヘミアン・ラプソディー 。クラシック・アーチストがカバーする曲ではありませんよね(^^)

オペラ・ヴォイスで歌う「フニクリ、フニクラ」。(アンドレ・リウと)

 

[脳腫瘍に侵されて]
2006年、レコーディングのため米国ロサンゼルスに向かう飛行機の中でラッセルはひどい頭痛に襲われました。前年から頭痛に悩まされ、診断を仰いだ2人の専門家の診断はどちらも原因はストレスでした。ロスに到着してテニスでストレスを発散しようとしたラッセルはボールが見えなかったのです。慌てて検査をした結果、ゴルフボール2つ分のサイズの脳腫瘍が見つかりました。悪性ではなかったので2日間ロスでレコーディングを行い、イギリスに帰ってすぐに手術を受けました。腫瘍が視神経を圧迫していたため手術は鼻を通して行われ、5時間を要しました。術後2ヶ月ほど療養した後、復帰してやりかけだったジャズアルバムを完成させました。

[再発した脳腫瘍]

1年後の2007年、ラッセルは新しいアルバムの収録中、突然身体中が機能不全に陥りました。脳腫瘍の再発に脳内出血を伴い事態は深刻でした。緊急手術の後も危篤状態だったラッセルは集中治療室でしばらく生死の境を彷徨ったのです。命を取り留めた彼は5週間の放射線治療を受け、リハビリ生活に入ります。治療の副作用で頭髪が抜け落ち、ステロイドの影響で体重が増加したラッセルは風貌が激変していました。身体的にも精神的にも極限状態のラッセルでしたが、翌2008年、復帰を心に決めます。

復帰したラッセルは精力的に活動を再開しました。手術と治療は、ラッセルの声帯に影響を及ぼす可能性がありましたが幸いダメージはなく、ラッセルの声は深みが増したようでした。ラッセルは「8気筒から12気筒になった気分だよ」と語っていました。


ドイツ、ハンブルグ: マイクや音響装置を使わない伝統的なクラシック・パフォーマンス。  曲目 ラフマニノフ「エ・サラ・コジ E Sara Cosi」(パガニーニの主題による狂詩曲)  演奏 ハンブルグ交響楽団


拍手が鳴り止まないラッセルのライブコンサート。下はイギリス北アイルランド、ロンドンデリーでのコンサート。

来日公演も同様でした。アンコールを終えたラッセルが舞台から消えても拍手が鳴り止まず、帰りかけた楽団員が席に戻り、やがてラッセルが再登場。彼が舞台上から最前列のお客さんと握手をし始めると、私も私もと女性ファンが舞台下に駆けつけたのです。ラッセルは嬉しそうに握手をし続けました。どさくさに紛れてサインをねだる不届き者もいて(笑)、それに応えるラッセル。男性客は面白がって口笛と拍手で盛り上げます。ロックコンサートではないので警備員も少なく、舞台下は女性ファンで溢れて収拾がつかなくなりました。まるでアイドルのコンサートで、こんなクラシックコンサートは見たことがありません(笑)。すると、微笑みながら様子を見ていたラッセルの指揮者がピアノに向かいイタリア民謡を弾き始めました。ラッセルはゆっくりと移動して2回目のアンコール曲を歌い始め、舞台下の女性たちは係員に促されて席に戻り騒ぎは収まりました。

聞くところによると、コンサートが終了して観客のほとんどが会場を出た後、舞台袖にいたラッセルを見つけたファンが声を掛けるとラッセルが舞台に出てきたそうです。気付いたファンたちが駆け寄りサインをねだると、ラッセルは最後の1人までサインに応じたとか。1時間近くかかったそうです。大スターなのに、こんなに気取らずカッコつけないアーチストは見たことがありません(笑)。


50代になり成熟度が増したラッセル。イギリス、チェスターの「オペラ・グリル」という音響設備完備の、いわゆるディナーショーができるレストランでのライブです。曲目はアルバム「ザッツ・ライフ」に収録されている「ユー・メイク・ミー・フィール・ソー・ヤング」。フランク・シナトラの大ヒット曲です。

 

最後に名曲「ネラ・ファンタジア」を。原曲は映画「ミッション」の"ガブリエルのオーボエ"です。多くのオペラ歌手やアーチストにカバーされている人気曲ですが、その中でも作曲者のモリコーネに「ベスト・オブ・ザ・ベスト」と言わしめたラッセル・ワトソンの歌をお楽しみください。

 

最近のラッセル・ワトソン

 

[参考文献] PRIDE OF MANCHESTER, Russellers (Russell Watson's Fan Club), heart "SHOWBIZ", HELLO!, METRO "Entertainment", Wikipedia (English version)